国内No.1の宿泊予約サイト「楽天トラベル」
2ヶ月後には5万円を稼ぐ!アフィリエイトノウハウ完全版!

東京六大学野球@東京六大学野球応援席

東京六大学野球@東京六大学野球応援席
日本に野球を定着させるのに大いに貢献した東京六大学野球! 一時は全国的にファンを拡大したと聞く。そんな東京六大学野球を応援しよう!




慶応義塾大学の塾歌と応援歌

三色旗は慶大の旗!「三色旗の下に」

藤山一郎氏作曲の「三色旗の下に」は慶應義塾大学の応援歌です。
 
東京六大学野球東京六大学野球応援席の野球侍です。
 
 この「三色旗の下に」は、昭和15年(1940年)に完成しましたが、しばらくあまり
歌われず、戦後ブラスバンドが出来た頃から歌われ始めました。
作曲は昭和の大歌手藤山一郎さんでした。美しいメロディがブラスによく合ったん
でしょうね。
また、この曲のサビの部分「慶應慶應慶應はえあるその名 慶應慶應慶應われら
が母校」は、大量得点のときに繰り返し何度も歌われます。
 
    「三色旗の下に」
 
            藤浦  洸  作詞
            藤山一郎   作曲 
 

               「1. 仰げば 青空高く〜」と歌いはじめます。
  
 
            こちらもお願いします
 
                同じジャンルをお探しなら人気blogランキングへトップページに戻る   

.

慶応義塾大学の塾歌と応援歌

「踊る太陽」は慶應義塾応援歌

東京六大学野球を応援しよう!の野球侍です。

踊る太陽

慶應義塾大学の応援歌です。

「踊る太陽」は、昭和11年(1936年)に発表されました。


作曲は、増永丈夫氏、前に「若き血」の項でお話しましたように、

歌謡曲の世界で有名になったあの藤山一郎さんです。

藤山一郎さんは、いずれ紹介する「三色旗の下に」の作曲もしてい

ます。


作詞は、白石鉄馬氏、これも後に紹介する「ダッシュKEIO」を昭和

41年(1966年)に作詞をされた松本好生さんです。


この「踊る太陽」は、昭和11年の早慶レガッタで初めて使われ、慶

應が見事大勝し、以後歌い継がれています。


  それでは「踊る太陽」、歌ってください。


        「踊る太陽」

            白石鉄馬 作詞
 
            増永丈夫 作曲

      「1.躍る太陽 煌めく大地(たいち)〜」と始まります。


  こちらもお願いします

同じジャンルをお探しなら人気blogランキングへ

トップページに戻る.

慶応義塾大学の塾歌と応援歌

慶応義塾大学応援歌ー「我ぞ覇者」

東京六大学野球を応援しよう!の野球侍です。


東京六大学、慶應義塾大学の応援歌「我ぞ覇者」の紹介です。

この応援歌は、応援歌史上初めてかもしれない特定の相手を歌詞に
歌い込んで作られています。作詞は、慶應出身の藤浦洸さんです。
「早慶戦」ということは「早稲田大学」を意識して作った歌で、
作曲は、早稲田の名応援歌「紺碧の空」の古関裕而先生です。

発表会は、昭和21年(1946年)神田共立講堂で行われました。

4番が早慶戦専用で「よくぞ来たれり、強敵早稲田」と歌われてい
ます。
もちろん、今では他校との試合では、「早稲田」の部分を対戦校の
名前で歌っています。

この応援歌に対抗して早稲田大学が、同じ古関先生に依頼して作っ
たのが、早稲田大学の応援歌で紹介した「ひかる青雲」です。

慶應と早稲田の応援歌合戦はまだ続きます。

それでは歌ってみましょう。

  「我ぞ覇者」

   「1、雲を破りて 世を照らさんと〜」と歌います。
     
  こちらもお願いします

同じジャンルをお探しなら人気blogランキングへ.

慶応義塾大学の塾歌と応援歌

「幻の門」といっても門はあった!

東京六大学野球を応援しよう!の野球侍です。


慶應義塾大学の応援歌に「幻の門」という歌がある。

「幻の門」というのは、三田の慶應義塾大学の東門のことであったが、

そう呼ばれる元になったのがこの「幻の門」という応援歌です。


<外見は粗末でも、青春の憧れと理想を迎え入れる大きな門>が、慶應の

精神に通じるものがあるということで、作詞者の堀口大学氏が作った

ものです。


現在では変わっていますが、このサイトに写真がありました。


 「幻の門」です。慶應義塾労働組合のHPです。


 また、「幻の門」について詳しいサイトがありました。


 コチラです。「幻の門」について



作曲者は、「赤とんぼ」の山田耕筰先生です。

曲は、コチラで聞くことができます。



さぁ、歌ってみましょう! 「幻の門」!


   「幻の門」


          山口 大学 作詞

          
          山田 耕筰 作曲


 「1.幻の門ここすぎて〜」 とはじまります。


  こちらもお願いします

同じジャンルをお探しなら人気blogランキングへ
2番はこちらで

慶応義塾大学の塾歌と応援歌

慶大の「若き血」は1オクターブで完成!

東京六大学野球を応援しよう!の野球侍です。


慶大の「若き血」誕生に関して第2弾です。


昭和2年に出来た堀内敬三さんの「若き血」は今までにない特長が

ありました。


すべて、早稲田の「都の西北」に対抗して作られたからです。

まず、曲のテンポが速い。2拍子で、ぐんぐん迫る感じで作られて

います。


「都の西北」の音域は9度だからというので、「若き血」は8度、

つまり1オクターブの音域に作られている。


昔は、男子優先であったでしょうが、現在のように男女が同時に歌う場合、

男女のキーが違うため、男女が歌いやすい中間のキーを選ぶことになる。

そのとき、出来るだけ音域の幅が小さいほうが歌いやすい。


「若き血」はこの点すぐれている。といっても、堀内さんも男女の

ことまでは考えず、どら声を上げる学生には音域が狭いほうがいいと

考えて作られたことと思いますが。


曲の終わりは、半完全終止(つまり「ソ」の音で終わっている)に

なって、繰り返しやすくなっています。


ただ、この歌が出来た当時、明治の軍歌調、寮歌調に慣れた学生に

歌わせるのは大変だったらしい。


音楽団体ワグネル・ソサイエティーでやったがうまくいかず、

歌唱力評判だった普通部の増永丈夫氏が呼び出され、短い小節を

歌って、すぐ学生に歌わせるという、口移しで教えたといわれる。


上級生の歌えない者も、彼にさんざんしごかれた。

当然反発が出て、「教え方が悪い」「生意気だ」というので

呼び出しが掛かり、脅され、したたかぶん殴られたそうです。


この増永丈夫さんが、後に歌謡界の大スターになられた藤山一郎

さんでした。


とくに「常に新らし」の「しー」の音程は出なかったろうと想像

します。今でも出ないのがいるんじゃないかな。


この年、昭和2年秋、11月6日の早慶戦第一試合、球場入り口で

新応援歌の歌詞が配られ、「陸の王者、けいおー」と初めて歌われ、

試合は、6−0で慶應が圧勝した。

続く翌日の第二試合も、3−0で慶應が勝った。

早稲田に負け続けていた3年間の屈辱を晴らしように、連勝。しかも

二試合完封。


その夜の銀座は、慶應一色、若き血一色と、正気を失った慶大生と

OBで埋まったらしい。


こうして「都の西方」に対抗して「若き血」が慶應の一部になった。

そして日本全国に普及していったのです。


さあそれでは、もう一度

  「元気よくー、若き血ー」





なし

慶応義塾大学の塾歌と応援歌

慶應の「若き血」誕生は昭和2年秋!

東京六大学野球を応援しよう!の野球侍です。


「都の西北、早稲田の杜にィーーー」

東京六大学野球ファンなら、早慶戦に一度でも行った人なら、あの

早稲田大学の怒涛のような大合唱に圧倒された経験を持たない人は

いないでしょう。

また、歌う側としてはこんなに気持ちよく歌える歌もそうないだろう。



この早稲田大学「都の西北」に対抗して作られたのが、

慶應義塾大学の応援歌「若き血」だったのである。



それまでの慶應の応援歌は、明治38年以降「天は晴れたり」という

応援歌があった。

しかし、この歌は、太鼓を叩きながら歌う、明治の軍歌調、寮歌調の

歌であり、とても「都の西北」に対抗できるものではなかった。



塾当局は、新しい校歌には関心を示していたが、応援歌にはたいした

関心は示さなかった。


そこで有志が立ち上がり、先輩諸氏に相談した結果、当時愛宕山の

NHK(当時はJOAKと呼ばれていた)にいた堀内敬三さんに白羽の矢が

当たった。


堀内敬三さんは、エンジニアで、アメリカのミシガン大学工学部、

マサチューセッツ工大大学院で学びながら、生来好きであった

音楽の歴史、作曲などの講座も学び、取得していた。


帰国後、機械も分かり、音楽にも精通する堀内氏は、NHKの音楽部

嘱託になっていた。


慶應のことは何も知らない、という堀内さんに、有志は、とにかく

「都の西北」を歌い負かすことだけ考えて作っていただきたいと、

懇願したのである。


そして出来上がったのが「若き血」である。

昭和2年のことであった。


・・・・次回「若き血」−2につづく。

その前に歌っておきましょう!

 「元気よくーー、わかきちーー」
追記なし

慶応義塾大学の塾歌と応援歌

慶應義塾大学の校歌は、塾歌である!

東京六大学野球を応援しよう!の野球侍です。


慶應義塾大学の校歌は、塾歌です。

現在の塾歌は、昭和15年11月初旬に完成し、塾歌委員会で正式に採択

決定のうえ、翌16年1月10日の福澤先生誕生記念会当夜、三田の大講堂で

発表されました。


それまでの塾歌は明治37年3月5日に発表されたもので、年月経つに

したがって、時代に適さなくなり、新しい塾歌が希望されていたものです。




昭和40年ころ、ある教科の試験で、この塾歌を、一字一句間違えずに

答案に書けば、及第点がもらえるという、有り得ないような噂があった

らしい。


真偽のほどは、わからない。


この塾歌は、他の大学との間で、物議をかもし出した時期があった。

世に「塾歌問題」というが、これは他の機会にする。



では、塾歌をうたいましょう。

曲はここ、塾歌

で、聞けます。

  こちらもお願いします
人気blogランキングへ続きなし
 

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。