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東京六大学野球@東京六大学野球応援席

東京六大学野球@東京六大学野球応援席
日本に野球を定着させるのに大いに貢献した東京六大学野球! 一時は全国的にファンを拡大したと聞く。そんな東京六大学野球を応援しよう!




東京六大学と事件

塾歌問題、解決!



東京六大学野球を応援しよう!の野球侍です。



事件!とまでいえませんが、昔「塾歌問題」というのがあったそうです。




塾歌というのは、慶應義塾大学の校歌です。したがって、この問題の

中心は慶應義塾大学です。



どういうことかというと、東京六大学のエール交換はそれぞれの校歌を

歌うことは、今では常識ですが、当時、えーと昭和31年(1956年)

頃は、慶大のエール交換で慶大の校歌、つまり塾歌を歌うのは早慶戦

限られていた、ということです。



塾歌の代わりに他校の試合で歌うのは、応援歌の「若き血」でした。

早稲田大学以外の大学は、ちょっと抵抗があったでしょうね。



この年までに何回も論議の的になってきましたが、明治大学、立教大学、

法政大学から「エールに塾歌を歌わないのはけしからん。差別だ」と

クレームというか、議論が再燃しました。当然でしょうね。



慶應義塾大学で塾生にアンケートをとった結果は「塾歌は早慶戦だけ、

他校とは『若き血』」ということでした。



早稲田大学は、どっちにつくことも出来ず、”中立の立場から、

ノーコメント”で通したようです。



一番強硬だったのは明治大学で、慶應側から何度も明治側に出向き

話し合いをしましたが、なかなか結論がでず、春のリーグ戦も

はじまりました。



慶明戦では、事前に話し合い、塾歌を歌わずに応援席にポールを立て

塾歌の吹奏をするという話し合いになったらしい。


(今考えると変な妥協案と思えるけど・・・。事実、そのとき塾生からも

 不満の声はあったということです)



一回戦はそれですみましたが、二回戦になって野球部からポール撤去の

申し入れがあり、困った現役幹部は、腹を決めて塾歌を歌うことにした

そうです。現役幹部としては、関係者、諸先輩がどういうか、長年の

問題であっただけに必死の思いだったでしょうね。

歌ってしまったら、その後大したことも無く、拍子抜けだったよう

ですが、良かった、良かった、というところですか。



こうして、何年も諸先輩たちを悩ませた「塾歌問題」は、あってなく

幕切れとなったのです。



だけどなぜ、それまで問題だったんだろう、という気がしますね。



なんとなく自然に決まっていたものを替えるというのは、結構大変

なのかもしれないな。



特に伝統を引き継ぐ当事者としては。



他にも、わけのはっきりしない伝統もあるんだろうな。

伝統だから替えちゃいけない、替えられないという・・・・。



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東京六大学と事件

それは「リンゴ事件」できまった!

東京六大学野球を応援しよう!の野球侍です。


早慶戦に行ったことがありますか?

早慶戦は、慶應が三塁側、早稲田は一塁側と決まってますよね。

なぜだか、知ってますか?


さて戦前の東京六大学野球は、現在のプロ野球よりも人気だったんです。

時は1933年(昭和8年)秋のこと。

早慶戦第3回戦でその事件は起きた。

9回表の守備についた慶應義塾の水原茂3塁手に向かって、

早稲田応援席からリンゴの芯が投げつけられた。

それを水原が投げ返すと、リンゴの芯が早大生の顔面を直撃。


しかも9回裏に慶應義塾が逆転勝利を収めたため、興奮した

早稲田応援団の一部が試合終了後、慶應義塾応援席側に乱入し、

指揮棒を奪い取る騒ぎに発展した。

その後、早大応援部解散、水原選手自主退部により事件は

幕を閉じた。

バンカラ早稲田応援部といわれ、再び応援部が結成されたのは

昭和15年であったという。


これが、いわゆる「リンゴ事件」(水原リンゴ事件)である。

事件がおきた時、早稲田は3塁側で、慶應は1塁側だった。


このリンゴ事件以降、早慶戦では、早稲田のダックアウト及び応援席は

一塁側、慶應義塾のダックアウト及び応援席は三塁側に固定されることに

なった。


こんな理由で、早稲田一塁側、慶應三塁側になったそうです。


東京六大学も色々あるんですね。

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